過去との対話を楽しめる…そんな人間でありたい

まずは読んだ本の紹介……そして広がる世界……だといいなあ

017) やっぱり、イングリッド・バーグマンはすばらしい

化物の正体見たり枯尾花 (横井也有


この有名な句も、知覚と認知のずれを見事に表している


前回、考古学について、書こうとして、なぜか、このずれについて語ってしまった
そして、その話がまだ続く……


今回、この「ずれ」で思い出したのが、「ガス燈」というサスペンス映画だ

 

 

これには、イギリスで作られた1940年版とアメリカで作られた1944年版がある

 

ja.wikipedia.org


イングリッド・バーグマンがオスカー(アカデミー主演女優賞)をとった1944年度版のほうが有名だ


あらすじは
19世紀後半、広場に面したある家(そこでかつて殺人事件が起こったのだが、まだ未解決)にある夫婦が暮らし始める
暮らし始めてから、ものを紛失したり、家のものを隠したりという異常行動が妻にみられると夫に指摘される
繰り返し指摘され、妻は自分が異常なのではないかと思い、不安に駆られるようになる
そして、毎晩のこと、夫の外出後、部屋のガス燈が暗くなり、屋上から物音が聞こえるという「幻覚」を覚え始める


当時の家庭用のガス燈は、供給されるガスの量が一定なので、多くの部屋で使うと、その分暗くなる


夫が外出して、使用人をのぞけば誰もいないはずなのに、ガス燈が暗くなる!


というのが、この映画のキーであり、
妻の心理状態のメタファーである


40年と44年の映画を比べてみると
映画としてよくできているのは、やはり44年の方だ


40年のものより、44年の方が上映時間も長いこともあって、ストーリーに無理なく入る


また、「ああこれが伏線かなあ」と思ったところが、きちんと後で回収されてくれたのはうれしい
このおかげで探偵役(「第三の男」の主役ジョゼフ・コットン!)が活動する動機が明確になる
ハリウッド的なメロドラマの香りを入れつつ、サスペンス満載の映画
お客を飽きさせないつくり


では、40年版の出来が悪いのか?といわれると、やはり答えはノーだ
その魅力は、そのヴィクトリア朝期のイギリスらしさだ


44年はシャルル・ボワイエが夫役だけあって、甘さがある


それに対して、
40年度版の夫は、
若い小間使いに手を出しては、見下すという態度をとる
妻に対する言葉も冷酷そのものの
階級意識を強く表し、そこはとてもリアルなのだ


また、
妻がなくしたはずのブローチのありか
最大の問題、財宝ルビーのありか
この二つのあらわれ方も44年版より40年版のほうがスマートだと思う


44年度版の一番の魅力は、やはり、イングリッド・バーグマン
「正常」から「異常」へ変わる顔だけの演技
次々と現れるさまざまな表情
そして、鬼気迫るラストシーン


ほんとうに必見!


この映画は知覚と認知のずれが
認知能力を壊そうとする他者からの圧力で広がっていく話である


「わかる」ということが実はどれだけ危ういか、まざまざと感じさせてくれる

 

この「ガス燈」という映画をきっかけにして
ガスライティング」という言葉がうまれ、今では専門用語になっているという


その意味は精神的虐待、とくに「他人の現実認識能力を狂わせようとする試み」のことだという

 

ja.wikipedia.org

 

これも、バーグマンの熱演あってこそだろう


そして、最後に一言
40年度版でも、44年度版でもそうなのだが、
妻に反抗的でありつつ、夫には媚を売り、そして夜、男の人(警官)とデートをする若い小間使い
彼女がこの話の中で美味しい役なのだが


44年度版では若きアンジェラ・ランズベリーが演じている

 

邦題名で大損している「クリスタル殺人事件」(原作は「鏡は横にひび割れて」)のミス・マープル役をやった女優だ

大柄でちょっとミスマープルぽくないけどw
原作の小説は傑作だし、オールスターキャストなので、楽しい映画である

 

 

 

ここまでぼくはmaidのことを小間使いと書いてきた


というのも
44年度版のばあい、このmaidをメイドと訳しているのだが、
40年度版のばあい、メードと訳している……
(たぶん、40年度版のほうが字幕の訳が新しい)


いつから、メイドをメードと呼ぶようになったのだろう?


メードという語感にすごく違和感を感じて
なにか違う仕事をする人だとしか思えない


本来
男性使用人も女性使用人もさまざまなランクに分かれ、仕事もわかれている
当然職名もたくさんある


たとえば、本来は執事=バトラーではない
執事はスチュワード(steward)であり
主人の酒の管理人がバトラー(butler)なので、別の仕事
(この頃はbutlerの訳が執事になってしまったので、stewardを家令と訳すべきだそうだ)


上ではmaidを小間使いと訳したけど
maid=小間使いかといえば、実はそれもあやしいw
小間使いは奥様付きのmaidであり
いわゆるメイド、house maidはやはり女中というべきだろう
小間使いと女中ではやはりクラスが違うのだ


この件については
「召使いたちの大英帝国 」(新書y) 小林 章夫 を参照した

 

 


さまざまな召使がいて、役割があることこそ、イギリスの文化なので
その辺をきちんと使い分けてほしい


召使といえば「執事」「メード」


このイメージがとてつもなく恥ずかしく感じるのは
ぼくがやっぱり年寄なのかなあ


こういイメージの単純化こそ
「ガス燈」におけるガスライティングと近く感じるのはぼくだけだろうか?