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021) 「自然はいいなあ」……っていうけど、「自然」ってなに???

「自然に囲まれた生活」の「自然」とは何だろう?

 

例えば、この写真

 

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東京あきる野市 横山入里山


この写真には「自然」は写っていない
しいて言うならば、青い空ぐらいか

 

もう少しわかりやすい写真は

 

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栃木県下野市……だったと思う


水田……田んぼの写真だ


緑にあふれ、蝶が飛び、蛙が鳴こうと
水田は自然ではない


考えてみればわかると思うが、


水田の端と端で高低差があれば、
片方では水がなくて、干からびているのに、
片方では田植えした苗が水浸し
ということになってしまう


つまり、水田、
それも上記写真のような巨大な水田は
精密機械並みの「人工物」であって、「自然」ではない


里山にしてもそうだ、
雑木林にしてもそうだ


これらは人間の手が入ることが前提に作られた「人工物」であって「自然」ではない


明治半ば、東京府下渋谷村!に住んだ国木田独歩は周辺の武蔵野について次のように語る


「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。」(国木田独歩 「武蔵野」 青空文庫 )

 

www.aozora.gr.jp


かつて一面の萱原だった武蔵野は、江戸市民の燃料供給のために、広大な雑木林になった

 


雑木林は「自然」ではない、「人工物」なのだ


現代の日本に人間の手の入らない「自然」は
北海道や沖縄、あるいは白神山地などごく一部にしか存在しないものだ

 


ここまで、書いてきたので、おわかりだろうが、
ぼくはいま、「自然」=「人間の手が加わってないもの」という意味で使っている
これは“nature”の日本語訳で、という意味である


しかし、日常的には「自然」という言葉は、単に「山川草木」という意味でつかわれることが多い

 

kotobank.jp


水田や里山を見て、もしも「自然はいいなあ」と感じたとしたら、
それは「山川草木」のことであり、
その時の心情は、「花鳥風月」(山川草木を愛でる気持ち)を表しているのだろう

 

kotobank.jp


ところで、ネット上の英英辞典でいろいろ検索をしてみると
英語の“nature”も「山川草木」のイメージが強いみたいだが、それでも 

 

everything in the physical world that is not controlled by humans, such as wild plants and animals, earth and rocks, and the weather

「人間によってコントロールできない物質世界にかかわるすべてのもの」

 

www.ldoceonline.com

 

やはり“physical”という“mental”に対立する概念がきちんと入れられている

 

“nature”の反対語は“art”であり、「自然」と「人間」は対立するものである

 

そのうえで、“nature”の「日本語の意味」を調べてみると


自然, 自然界(人間・精神・人工などと対立したものとしてとらえられている. 日本語の「自然」には人間・精神なども含まれることがあるので注意)

 

kotobank.jp

 


……

日本語の「自然」には人間・精神なども含まれることがある


え?
ええ?


これはいったいどういうことのなのだろう?


本来、自然と対立するはずの人間・精神を包容する「自然」という言葉
どう見ても定義違反だけど、どうしてこうなっているのだろうか?


答えを先に言えば、
ぼくらが使う「自然」という言葉には
“nature”の訳としての「自然」という言葉があり
さらに別の「自然」という言葉があるということだ


実は、前近代から(仏教用語由来の)「自然(じねん)」という言葉があり
“nature”の翻訳語として「自然」という言葉を仮借したということが正しい


その前近代から使われている「自然」については
そう、形容動詞・副詞としての「自然に」ならわかりやすい
つまり、「自動的に」という意味で使う「自然」である


「自然とアイディアが浮かんじゃった」
といったときに、「山川草木」の意味はまったくないだろう


“nature”よりも“natural”のほうが、日本語にぴったり合う気がするのも
もともとの「自然」という言葉には名詞の意味がないからだ


だから、ぼくらは「自然」という言葉を使うときに
「山川草木」のことなのか、“nature”のことなのか、
翻訳以前に使われていた「自然(じねん)」のことなのか
訳が分からないまま、あいまいのまま使うことになる


むしろ、あいまいだからこそ「自然」という言葉は便利なのである


そのことを柳父章は「カセット効果」という言葉で説明する

 

 

 

むずかしそうな漢字には、よくは分らないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。
(「翻訳語成立事情」 (岩波新書 黄版 ) 柳父 章 (1982年)p36)


この「自然」ということばに、翻訳語に特有の、あの「カセット効果」が働いているのだ、と考えられるのである。実はよく意味が分らない、が重要な意味がそこにはこめられているに違いない。そういうことばから、天降り的に、演繹的に、深遠な意味が導き出され、論理を導くのである。(「翻訳語成立事情」 (岩波新書 黄版 ) 柳父 章 (1982年)p142)


柳父章は翻訳された漢語的単語の「カセット効果」を述べているが、
これは逆に翻訳されないカタカナ言葉も同じ効果を持つだろう
(これをいま、非翻訳語と呼ぼう)


例えばコンピュータ用語など、カタカナで書かれることで、「よくは分らないが、何か重要な意味があるのだ」
としばしば思うことは、経験的に理解できると思う


翻訳語にしろ、非翻訳語にしろ、
「よくは分らないが、何か重要な意味があるのだ」という効果が有効なのは
日本語が相手に依存する言語であるゆえんだろう


「っぽい」「みたいな」「なんか」「とか」


ぼくらの言葉が断定を避け、あいまいな表現を多用するのは、
相手に依存し、相手との共感関係を維持しようとする方法に他ならない


そのためのマジックワードとしての翻訳語、非翻訳語の存在はやはり大きいに違いない

 

だから「自然」という言葉はわかるようでわからないのも、ある種当たり前なのだろう
日本語は難しい!!!