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まずは読んだ本の紹介……そして広がる世界……だといいなあ

035)『坊っちゃん」の時代』との出会い


小説や映画だけではなく、やはりマンガもぼくの人生に大きな影響を与えている

今でこそ(新しい)マンガをほとんど読むことがないが、かつては当たり前のようにマンガ少年だったし、多くの事柄はマンガから得たものだった

その中でも最も影響を与えてくれたものは『「坊っちゃん」の時代』(関川夏央谷口ジロー)シリーズだろう

 

 

明治39年(1906年)から43年(1910年)にかけての文人たちを描いた作品群である

第一部:「坊っちゃん」の時代……夏目漱石とその周りの青年たち
第二部:秋の舞姫……森鴎外二葉亭四迷
第三部:かの蒼空に……石川啄木とその周辺
第四部:明治流星雨……幸徳秋水と菅野須賀子※(大逆事件
第五部:不機嫌亭漱石……漱石の「修善寺の大患

※管野須賀子なのか、スガなのか、実は難しい。この時代の女性名の「子」の有無は曖昧としか言いようがない

関川夏央はこの作品の意図についていう

「彼ら(明治人……挿入引用者)の言動と行動、悩みと喜びを共有できるなら、明治人が作り上げるドラマはすなわち現代人のドラマに他ならない」(『明治流星雨』関川夏央谷口ジローp294)
「その日露戦争後の数年間こそ近代日本の転回点であったと見とおした」(『不機嫌亭漱石関川夏央谷口ジローp310)

こうして、漱石、鴎外をはじめとして、さまざまな文人、知識人が描かれる

手法としては、山田風太郎の得意とした「明治もの」と同じく「実在の人物たちが、もしも、意外な場所で出あっていたら」というものだろうが、
シリーズ後半になるにしたがって、そうした「if」の要素はだんだんと消えていく

そう、谷口ゴローの作画がだんだんと劇画調からはなれ、白く、細く、丸くなるのパラレルで……

 

22年2月 谷口ジロー展 世田谷文学館にて

『「坊っちゃん」の時代』の時の絵とはだいぶ違う

 

………そういえば、ずいぶん読んでないなあ、山田風太郎の「明治もの」

ぼくにとっては、『「坊っちゃん」の時代』で「明治もの」に入り、
その後、山田風太郎の「明治もの」を読むという逆転現象になっているのだが、
それは仕方がないことといえるかもしれない

というのも、第一部の『「坊っちゃん」の時代』の単行本が出たのは、1987年であり、
薄れつつある記憶を紐解けば、当時の実家の新聞……毎日新聞だと思うが、その書評が載っていたのだと思う
その書評を読んで、興味を持ち、白面の美少年だったぼく(ん?何か問題がある?)は近くの本屋に駆け込んだのだろう

だから、本棚にある(マンガは電子化していないので)色あせした『「坊っちゃん」の時代』の単行本も初版本である

あれから35年……
『「坊っちゃん」の時代』に出会わなかったならば、
明治からの日本近代、あるいは江戸後期以降の近世・近代に興味を持つことは少なかったかもしれない
『「坊っちゃん」の時代』シリーズに登場する群像たちを追いかけつづけて、35年が過ぎたといってもよい

『「坊っちゃん」の時代』について、言うことも色々あるが、
今回思い出したのは、第二部『秋の舞姫』である

 

 

シリーズほかの作品とは違い、この『秋の舞姫』は、途中で明治42年をはさみつつも、明治21年が舞台となっている

ドイツ留学から帰国した鴎外森林太郎、その鴎外を追って来日した少女、
そしてふとしたことから二人と知り合った二葉亭四迷長谷川辰之助
この三人の物語が、二十一年後の二葉亭四迷の死とその葬儀を挟みつつ、紡がれる

そう、いわゆる「エリス来日事件」である

個人の愛をとるのか、国家への義務をとるのか……
近代的な自我に目覚めた知識人は、個人、家族、国家の間で悩むことになる

知識人=インテリの語源であるインテリゲンツィヤという言葉はロシア語由来であり、
近代西欧文明にぶつかったロシアの知識層の悩みは
そのまま近代日本の知識層の悩みである

遅れた自国社会を眺めつつ、人はどう生きたらいいのか?

西欧化するべきなのか、土着の文明を守るべきなのか
自由に生きるべきなのか、義務に生きるべきなのか

そうした悩みは、150年という時を経ても、
いまだ我々の社会に残り続ける

「ありていにいえば、白人が東アジア人より美しいと見えたときに、日本の、あるいはアジアの苦悩は始まった」(『秋の舞姫関川夏央谷口ジロー p284)

ロシアを知る二葉亭四迷長谷川辰之助
ドイツを知る鴎外森林太郎
そして、イギリスを知る漱石夏目辰之助

彼らこそ、この悩みに直面した最初の知識人たちなのだ

……明治42年二葉亭四迷の葬儀の帰り道
鴎外は漱石に次のような章句をつぶやく


見よ此処に
無用の人

かつて有用と
信じて徒(いたず)らに
おのれを恃(たの)み

いま 無用と
信じて果てた
有用の人の墓前に
黙して佇(たたず)む

誰か知る
かの人にも
胸高鳴れる
初夏のありしを
(『秋の舞姫関川夏央谷口ジロー p270)


明治人の苦悩と現代人の苦悩と……

ぼくは上の章句を友人の死を伝え聞いたこの一月、思い出したのだ

若くして亡くなった、まさに有用な人よ
無用な人が残る、この悲しさ
せめて、安らかに眠りたまえ……