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まずは読んだ本の紹介……そして広がる世界……だといいなあ

018) 星の王子さま と あのときの王子くん

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横浜馬車道 横浜正金旧本店

 

前回は映画の「ガス燈」

 

tankob-jisan.hatenadiary.jp

 


そして、ガス燈といえば、
サン=テグジュペリの「星の王子さま」(内藤 濯・訳)「あのときの王子くん」(大久保ゆう・訳)を思い出すでしょ?

 

www.aozora.gr.jp

 


王子くんが立ち寄った星の中に
あかり(ガス燈)が一本、あかりつけ(点燈夫)が一人がいる星がある


その星は一日が1分なので
あかりつけは点けたり、消したり、点けたり、消したり、点けたり、消したり……


いろいろめぐった星々の中で王子くんはこのあかりつけだけは友だちになれると思ったのだが、
あまりにも小さい星だったので、そこを後にして、別の星に向かったのだ


ガス燈には点燈夫が必要
当たり前だけど、忘れがちなこと


だから、映画「ガス燈」にも、街燈を点灯する役の人のシーンがちゃんとある


横浜・馬車道には 日本初のガス灯という史跡があるけど
ついでに、点燈夫のことを思い出してあげよう

(ガス灯の写真がなかったので、横浜正金旧本店で勘弁してね)

 

星の王子さま」といえば、岩波書店の内藤 濯の訳というイメージが強いのだが
21世紀に入って翻訳独占権が切れたので、各社から新訳が出たらしい


星の王子さま」「新訳 星の王子さま」「プチ・プランス」「小さな王子」「小さな星の王子さま」「ちいさな王子」「小さい王子」
各社、結構有名な作家が訳していたりして、頑張っているようだけれど
どこまで、違いを出せているのだろう?


その中で「あのときの王子くん」(大久保ゆう・訳)という題名だけが
やはり異彩を放っている


しかも、フリーで公開され、青空文庫にも入っているのだ
これは、さっそく読まなくてはなるまい


ぼくは内藤訳「星の王子さま」で育ったのだけれど
今回大久保訳の「あのときの王子くん」を読んでみてイメージがずいぶん違う


大久保訳が朗読されることを前提に、やまとことばで表現しようとしているというのが一つあるだろう
上記「街燈」を「あかり」、「点燈夫」を「あかりつけ」と訳しているところからもそれがわかる


王子さま(王子くん)が最初に現れるシーンを見てみよう


「すると、どうでしょう、おどろいたことに、夜があけると、 へんな、小さな声がするので、ぼくは目をさましました。
声は、こういっていました。
『ね……ヒツジの絵をかいて!』」
(「星の王子さま」 内藤 濯・訳 岩波少年文庫 1953年 P11)


「だから、ぼくがびっくりしたのも、みんなわかってくれるとおもう。
じつは、あさ日がのぼるころ、ぼくは、ふしぎなかわいいこえでおこされたんだ。
『ごめんください……ヒツジの絵をかいて!』」
(「あのときの王子くん」大久保ゆう・訳 青空文庫 2章)


ここにはリズム、そう読むためのリズムがある
そして、聞いて意味がスーッと入ってくるために言葉が選ばれているのだ


実は、逆に意味がスーッと入らないところもある


王子くんがキツネに出会うシーン


「『きみ、だれ?』と王子くんはいった。『とってもかわいいね……』
『おいら、キツネ。』とキツネはこたえた。
『こっちにきて、いっしょにあそぼうよ。』と王子くんがさそった。『ぼく、ひどくせつないんだ……』
『いっしょにはあそべない。』とキツネはいった。『おいら、きみになつけられてないもん。』」
(「あのときの王子くん」大久保ゆう・訳 青空文庫 21章)


大久保訳の<なつける>という言葉の意味が最初よくわからなかった
大事なシーンなのに読みにくいなあ、と最初は印象を持ったものだ


そこで、内藤訳をのぞいてみると<飼いならす>となっている


内藤訳では
<飼いならす>の意味を尋ねる王子さまに対して、
キツネは<仲よくなる>の意味だと答える


なるほどわかりやすい……と思いながら……
ふと、違和感を感じる


<飼いならす>はどうみても<仲よくなる>というような両者が対等な意味ではない


一方
大久保訳の<なつける>は自動詞<なつく>の他動詞で「なつくようにする」という意味


では<なつける>をキツネはどういうのだろうか?
キツネは答える。 <きづなをつくる>と


王子くんの旅の目的に「友だちを見つける」ということがある以上
<きづなをつくる>という言葉が一番しっくりくる


そして、
ここまでかんがえて、ぼくはようやく気付いたのだ


ここは王子くんと読者(聞き手)が同じ立場になるべきシーン
だから、キツネの<なつける>という言葉をわからなくてもいい
ということに


読者(聞き手)も、王子くんと同じように何度も
「<なつける>って、どういうこと?」
と聞けばいいのだ


<なつける>
この言葉を選ぶ背景にどれだけのものがあったのか……


翻訳する行為に、心から敬意を表したい


「あのときの王子くん」という作品の魅力は
ネット上にて、フリーで公開するという現代的な意味をふくめて、
この「翻訳するという行為」の意思の強さにあるだろう


中華文明の周辺として成立した日本は、さらに近代西欧文明を受け入れることになる
(そもそも、近代化=西欧化なのかどうか、ぼくにとって一番のテーマなのだが)


中華文明の漢字を導入し、漢文を翻訳する
(そのやり方を敷衍しつつ)西欧語を翻訳する


この連続が日本の文明であったといっても過言ではない


20世紀の内藤訳の言葉
21世紀の大久保訳の言葉
どちらが正しいということではない


時代や状況に合わせて、どのように言葉を選び、作り上げていくのか


翻訳というのは単に受容するだけではなく
主体的な言葉づくりに他ならないということを
思い出せてくれたことを感謝しよう

 


最後に
キツネが王子くんに話す有名なシーンを……


「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
(「星の王子さま」 内藤 濯・訳 岩波少年文庫 1953年 P115)

 

「心でなくちゃ、よく見えない。もののなかみは、目では見えない、ってこと。」
(「あのときの王子くん」大久保ゆう・訳 青空文庫 21章)