過去との対話を楽しめる…そんな人間でありたい

まずは読んだ本の紹介……そして広がる世界……だといいなあ

025) ポール・ゴーギャンを求めて

ぼくはポール・ゴーギャンについて、何かを語られるほど、ゴーギャンや西洋絵画に詳しいわけではない
ただ、最近、といってもここ数年という意味だが、とても気になる画家なのだ
それはなぜだろう?
ぼく自身にも答えが出ているわけじゃない

 

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昔々、高階秀爾の本を読みながら、お勉強をした時
(久しぶりに高階秀爾の本を読もうっと)

 

ja.wikipedia.org

 

西洋絵画の一つのテーマに「光(色と置き換えてもよい)を描く」があるのではないか
そう思ったぼくは抽象画を眺めてみた

 

何が描いてあるか、さっぱりわからなかったモンドリアンも何だか分かった気になってくる

 

目に映る光=色だけを抽出し、単純化された世界
これがモンドリアンの絵ではないだろうか?

 

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現実のひかりを前にした、実は具体的な絵に違いない


Eureka!


ぼくはこのときの分かった感を「モンドリアン・ショック」と自分自身で名付けたのだった

 


それにたいして、ゴーギャンの良さって何だろう……
正直なかなか言葉にすることができないのがもどかしい


じわじわとじわじわと心の奥底に生まれてくる感覚
二度、三度、ゆっくりと鑑賞したくなる気持ち


株式仲買人だったゴーギャンは余暇に絵を描くところから始め、34歳で画家を目指す
ゴッホと暮らしたが、関係はあっという間に崩壊し、ゴッホは耳を切る
フランスから二度タヒチにわたり、さらにマルキーズ諸島へ渡り、そこで客死した
二度目のタヒチ滞在であの有名な「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描く

 

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ぼくは今「客死」と書いたが、内なる野蛮人を自覚し、文明から脱出したゴーギャンは「客死」なのだろうか?


ゴーギャンとはいったいなにもので、何を描こうとしたのだろうか


ゴーギャンが一体どう人物であるのか、一つの回答を探して
映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」(2017年)を観てみた
ヴァンサン・カッセルゴーギャンを演じだ作品だ

 


この「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」は一度目のタヒチ滞在の話になる
そこで得た現地妻テハーマナ(通称テフラ)という少女との「愛」の話だ


この映画で描かれた二人の関係を「愛」と呼んでいいのか、
今のぼくにはわからない
もう少し勉強が必要であろう


ゴーギャン自身が書いた「ノアノア」というタヒチ滞在記(むろんこれもフィクション部分があるだろう)をまだ読んではいない
映画における、ふたりの関係で現れる感傷的な部分は、事実のというより、「ノアノア」をもとにして書かれていると思われる
(テハーマナが当時未成年、しかもローティーンであったことは映画で触れられることはない)


とりあえず、電子本箱の中から取り出した
ゴーギャン-芸術・楽園・イヴ」(講談社選書メチエ) 湯原 かの子(1995年)
この本だけが、いまのところぼくの種本だからだ

 


この本は、テハーマナとの生活について、以下のようにまとめられている

 

「画家はテハマナという個人を通して、マオリ文化の総体に触れることができる。自分のイメージした原初の楽園を、自分の夢想したイヴを、テハマナに投影することができる。だからこそ、テハマナはゴーギャンにとって楽園の伴侶たりえたのである。」(「ゴーギャン-芸術・楽園・イヴ」p154)

 

ゴーギャンタヒチの旅ともちろん同等ではないが
ゴーギャンを探す旅はもう少し続ける必要があるだろう


久しぶりに西洋絵画史の本も読まなくてはならないし
ゴーギャン関係の本をまだまだ読む必要がある


世紀末(というと普通は19世紀の)、ゴーギャンは文明から離れようと意図し
楽園とイブを求めて南に旅立った


次の20世紀、肥大化した文明が人々に大きな悲劇を生んだことは周知の事実である
さらに21世紀……さらに巨大化する文明、ゴーギャンの夢見た楽園は残っているのだろうか


「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
ゴーギャンの問いかけに答えを出せる人はいまだいない