過去との対話を楽しめる…そんな人間でありたい

まずは読んだ本の紹介……そして広がる世界……だといいなあ

013) ぼくは算数ができない

まだ このブログに出てきていない趣味が一つあるのだが
その趣味をする際に、数を多く数える必要がある


これが困ったことに、
ぼくは繰り上がりや繰り下がりの計算が苦手なのだ
繰り上がりはまだしも、とくに繰り下がりは……時間がかかるw


だから、その趣味で、いつも苦労ばかりしている


算数が苦手なのは、それ以外の日常でも足を引っ張る


たとえば、(時刻ではなく)時間を数えるのにも
しばしば指を使わなくちゃならないぐらいだ

 

指を使って数える


まさに、自然に数えるから「自然数

ヒトが指で数を数えたときから、「数」は始まったのに違いない

 

「個体発生は系統発生をまねる」
という説が、生物学的に正しいのか、
ぼくは正確にはわからないのだが、


学ぶというのは、
人類の歴史の中で増えてきた知識(系統発生)を
個人がその発展を再現して知識化する(個体発生)ことに他ならない

 

自然数から始まって、整数、有理数、実数へと
具体的、個別的な算数から抽象的、法則的数学へと
初等教育中等教育で学んでいく作業も


この「個体発生は系統発生をまねる」という一例であろう

 

 

話を少し変えて

 

今回、
「数学の生い立ち」 (岩波新書旧赤版) 吉田 洋一 (1939,1956改版)
を読んだのは、

 

 

前回
「バルカン 」 (岩波新書 旧赤版) 芦田 均 (1939)
読んだので、

 


「よおし、岩波新書の旧赤版を読む!というシリーズをしよう」と思ったからに過ぎない


ぼくの電子本箱の中の数少ない旧赤版の一つが「零の発見」だったのだ

 

 

ここで、話を戻す

 

上記のように、ぼくは算数ができない
したがって、数学もあまり好きではない


しかし、この「零の発見」を、こんな僕でも楽しく読むことができた

 

零の発見、記数法
中世の計算の仕方からアバカス・そろばん、計算尺、そしてコンピュータへ
小数の発生、対数の発生……

 

ja.wikipedia.org

 

ja.wikipedia.org

 

対数!

 

対数がなぜ必要だったのか、
この本のように歴史の流れの中で教えてくれることはほとんどない


必要性ということが理解できれば、
計算への親しみも湧くに違いない

 

 

別の例も考えよう

 

ぼくらが覚えさせられた
(x+1)の2乗=xの2乗+2x+1

 

これは

 

二つの平方数の差
(x+1)の2乗-xの2乗=2x+1
が必ず奇数(2x+1)になる


という意味になる

 

つまり、下の図になる

 

◇◇◇◎
◇◇◇◎
◇◇◇◎
◎◎◎◎

4×4の正方形から
3×3の正方形を引けば
◎の7が残る

 

この◎のL字型の図形を「グノモン」と古代ギリシア人は呼んでいたという(前掲書p106)

 

ぼくらが中学生のころ学んだ数学というのは、
じつは古代ギリシアピュタゴラスの数学ともいえる


「個体発生は系統発生をまねる」のだ


2500年前の英知が今に引き継がれる不思議
無味乾燥だと思われる数学の奥の深さ


その不思議さを見つけられる「零の発見」が
80年にもわたって読まれるのも、不思議ではない

 

012) ヨーロッパの火薬庫に火薬を入れたのは誰なのか?

010)では、
東側社会とその崩壊で翻弄されたバルカン諸国の人たち

 

tankob-jisan.hatenadiary.jp

 

011)では
その前、第二世界大戦の前のバルカン諸国のイメージ

 

tankob-jisan.hatenadiary.jp


について、語ってきた(つもり)

 

さまざまな民族、宗教が入り乱れるバルカン半島

 

バルカン諸国、あるいは南東欧諸国というのは、
ギリシアブルガリアルーマニアアルバニア
ユーゴスラヴィアセルビアクロアチアスロヴェニアボスニア・ヘルツェゴヴィナモンテネグロ北マケドニアコソボ

ただし、スロヴェニアクロアチアが抜けたり、トルコが入ったり……多少の増減はある

 

これらバルカン諸国のイメージといえば、
歴史の教科書に必ず書かれる、そう
「ヨーロッパの火薬庫」

 

第一次世界大戦の勃発の舞台(サラエボ事件)になり
第二次世界大戦では独伊ソという大国に翻弄される
そして戦後は多くソ連圏に位置し、安定したかに見えたが、
冷戦の崩壊後、独立、分離、内戦、独立、分離……で、わけわかめ……

 

やはり、芦田均の言う通り「呪われたバルカン」なのだろうか?

 

 


ぼくは専門家ではないし、
ここで事細かくバルカン諸国の歴史や現状を語ることはただ長くなるだけだ
なので、関係する本を紹介することでこの話をまとめたいとは思う


その前に一つだけ
(こういうことをやるから長くなるのだが)


今回本を読んで、知ったこと、今まで気づいていなかったことは
(考えてみれば、当たり前といえば当たり前なのだが)


「バルカン」という呼称は歴史的であるということ

 

バルカン諸国、バルカン半島、バルカン地域
といういい方がなされるようになったのは、長くて、ここ200年ぐらい
それまでは「ヨーロッパ・トルコ」といわれていたということだ

 

オスマン帝国に支配された500年
地域社会においては
○○人、××人という考え方はほとんど認識されることはなく
正教徒かムスリムかというカテゴリーでしか
(自己認識も含め)ほとんど認識されていなかった


村々では、違う宗教、違う言葉をしゃべる人々が普通に共存していたのだ

 

ところが
ロシア帝国が、ハプスブルク帝国が、バルカン半島に進出し始める
遅れた、野蛮なオスマン帝国から人々を開放するために


そして、ある日、村々で

 

俺(たち)とお前(たち)は違う、
 話している言葉違うから、神様が違うから

 

という意識が生まれる


この意識が生まれたその日から
バルカン半島の人々の苦悩が始まったのだ

 


さて、今回、ぼくが取り急ぎ読んだ本は以下の三冊だ

 

一冊目は、前から言及している

「バルカン 」 (岩波新書 旧赤版) 芦田 均 (1939)

 

 

芦田均は外交官を経て、政治家
日本国憲法制定過程で重要な役割を果たし(芦田修正で有名)
のちに総理大臣


彼の「呪われたバルカン」との記述を繰り返してきたが、
芦田均の名誉のために、付け加えておく


バルカン半島の(当時の)国々の歴史・現状を語った後の章は「バルカン人のバルカン」であり
大国の後ろ盾のない、自律的なバルカン諸国の地域協力=1934年のバルカン協商を高く評価している


二冊目は……

 

あれ?コソボって独立しているの?してないの?
北マケドニアって何よ?その名前
そう思ったりしません?

21世紀に入ってもバルカン諸国の動きは早くてついていけない!

そんなあなたに

 


「図説 バルカンの歴史 増補四訂新装版 」(ふくろうの本) 柴宣弘 (2019)

 

 

2001年に初版が出て、以来こまめに増補改訂をしてくれる偉大な本
図版が多いので、読みやすいと思うか、読みにくいと思うか、そこがわかれそう

 

三冊目

「バルカン 『ヨーロッパの火薬庫』の歴史」(中公新書) マーク・マゾワー (2017)

 


翻訳は17年と新しいが、原著は2000年なので少し古い本になるが、
今回、この本に多くのことを教えてもらった


この本に特徴的なのは、各国別の記述をせず、バルカン半島全体の歴史として扱っていること
そして、オスマン帝国時代の記述が多いことだ
逆に言えば、第一次世界大戦後~冷戦期にかけては少しわかりにくいのが、弱点
補足的な本を読む必要があるかも


さらに、オスマン帝国全体の衰亡史が読みたいと思った今日この頃
オスマン帝国拡大期、あるいは各国史はあるのだけど……

 

また、本を買わないといけないなあ
そして、増える積読……

 

トホホ

 

011) 呪われたバルカン半島??

バルカン超特急(The Lady Vanishes)

 

バルカン超特急(字幕版)

バルカン超特急(字幕版)

  • マーガレット・ロックウッド
Amazon

 

これは、イギリスで製作された最後のヒッチコック映画
この後、ヒッチコックはハリウッドで映画を作ることになる

 

戦争間近のヨーロッパ、そのヨーロッパの架空の国バンドリカ
山奥のホテル、雪で鉄道が止まったために、多く人が足止めされる
クリケット狂のイギリス人男性二人、ダブル不倫カップル、結婚を控える若い女性(アイリス)、元家庭教師の老婦人(ミス・フロイ)
民族舞踊をコピーするクラリネット奏者(ギルバート)
ミス・フロイは窓下のギターの音色を楽しそうに聴くのだが、上の階の民族舞踊とクラリネットでうるさくなる
アイリスがギルバートに文句を言いに行くと、そこですったもんだ
そのドタバタが終わるころ、外のギター奏者は何もかもに殺される……

 

次の日、列車が運行され、みんなが乗り込む
その寸前、ミス・フロイをねらったと思われる植木鉢がアイリスに当たり脳震盪を起こす
朦朧とするアイリスと彼女を介抱するミス・フロイが食堂車でお茶を飲み、コンパートメントに戻る
「私はパズルをやってるから、少し寝なさい」ミス・フロイはアイリスにやさしく言う

 

ところが、
アイリスが起きてみると、目の前のミス・フロイがいない!
コンパートメントのほかの乗客もそんな老婦人を知らないという
ほかの乗客もみな知らないと答えるし、
また、食堂車の伝票もお茶一杯(つまり、アイリス分)だけになっているのだ

 

そう、老婦人が消えてしまったのだ(The Lady Vanishes!)

 

乗り合わせた医者は脳震盪のせいで記憶障害が起こり、ありもない記憶が生じていると診断するが、
ミス・フロイの実在を信じるアイリスはギルバートと、消えてしまったミス・フロイを探し始める……

 

ヒッチコック映画だから、
ミス・フロイが消えた理由、そしてそれはどうやってかなされたのか
という謎解きは意外と早く解明される


そのうえで
諜報活動とその情報を本国イギリスへと持ち帰ろうとする努力と
それを阻止しようとするバンドリカ軍隊との対決へとストーリーは進むのである


最初のホテルのシーンが若干冗漫の感があるけど、
登場人物の性格付けと、コメディ部分と思えば、楽しくみられる

 

後半の鉄道のシーンは小さな伏線の貼り方はやはりうまい
また、謎解きはあっさりと解明するので、
逆に視聴者は、アイリスとギルバートがどうなるか、ハラハラできる

 

まさにヒッチコック調!
楽しい映画!


めでたしめでたし


……
ちょっとまって

 

バルカン超特急

この邦題は一体どこから?
そもそも、どこがバルカンなんだろ?

 

原作のWikipediaを見てみると

 

en.wikipedia.org

 

 a small hotel in ‘a remote corner of Europe’
ヨーロッパの辺境のホテルとある
ヨーロッパの辺境が舞台……

 

辺境、山奥、雪崩で鉄道が止まり
大国のスパイが暗躍する

 

これがバンドリカの、つまりはバルカン半島の国々のイメージなのだ
ちなみに原作は1936年に、映画は1938年に作られている

 

そういえば、
あの有名な「オリエント急行の殺人」でも
ユーゴスラヴィアの山奥でオリエント急行が雪で立ち往生する


アメリカ人のハバード夫人は列車が立ち往生したときに以下のように言うのだ

 

「『それにしても、ここはなんという国ですの』とミセズ・ハバードが涙声できいた。
ユーゴスラヴィアだと教えられて彼女は言った。
『まあ! バルカン半島の国ですのね。じゃ、どうしようもありませんわ』」
(「オリエント急行の殺人」(ハヤカワ・ミステリ文庫) アガサ・クリスティー 中村能三訳(1978) p56)

 

(ぼくの持っているのは、↑より古い版)

 

脱線するが、映画「オリエント急行殺人事件」(1974)のハバード夫人=ローレン・バコールのかっこいいこと!
アルバート・フィニーの嫌な奴=ポアロも嫌いじゃない(ちょっとやりすぎ?)

 

 

バルカン半島、雪で鉄道が止まるところから始まるサスペンス……
バルカン超特急」の日本での公開は38年の製作からすごく遅れ、1976年

 

ということは、
74年の「オリエント急行殺人事件」から邦題名をいただいたんだろうなあ

 


上記のようにこの映画の製作は1938年
ヨーロッパに戦争の危険が近づいてきた時である

 

そして、1939年、たぶん日本で最初のバルカン半島の国々をテーマにした本
「バルカン」(岩波新書 旧赤版)を書いた芦田均
第一章第一節の題名を「呪われたバルカン」とするのだ

 

 

どうしようもないバルカン半島の国

呪われたバルカン……

 

……以下、次回!w

 

 

 

 

 

 

010) この本のタイトル以上のブログのタイトルを思いつけるわけがない

たまには、すこしは新しい本を、と


嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫) 米原 万里 (2004)」

 

を取り出して、読み始める
(あれ?20年ぐらい前の本だ どこが新しいのだろうw)

 

 

そして、一気に読み終える
この一気感に出会える本は少ない

 

こういう本に出合えたことに感謝
だから本を読むことをやめられない


……
しかし、しばしの興奮の後、だんだんと困惑が生まれてくるのだ
このおもしさを伝えるすべを、ぼくが持っていないことに


この映画はおもしろい
この本はおもしろい
○○はおもしろい

 

この「おもしろい」という言葉ぐらい説明不能なものはない
というか、説明を拒否するというべきか

 

あるいは
相手に依存する言語としての日本語の本領発揮なのかもしれない

 

結局は清少納言・「枕草子」のように、
事柄を羅列することしかなくなるのかもしれない
(結局はこのブログだって同じことをしているだけなのかもしれない)

 

実は、この辺のあたりもこの間ちらりと語った橋本治関連で進めたいのだが、
まだそこまでとても届かない

 

tankob-jisan.hatenadiary.jp

 

なので、話を戻そう

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫) 米原 万里」

 

1960年代前半、チェコスロバキア(今はチェコだね)のプラハの在プラハ・ソヴィエト学校に通っていた少女=「私」
と、その友人たち、ギリシア人の、ルーマニア人の、そしてユーゴスラヴィア人(これがとても難しい)の、との交流
そして、1989年の「東欧革命」以後、「私」がその友人たちに会いに行く

 

プラハ・ソヴィエト学校に通う日本人の少女
著者以外、ほとんどだれも経験できない思春期

 

50年以上前の少年少女でも
50以上の国の少年少女が集まっても
世界中どこであっても彼らたちが興味があることは同じ

 

そんな彼女たちが実に生き生きと描かれる
彼女たちのリアルな会話を読んでいると、
ぼくもその横で話を聞いているかのような錯覚を覚える

 

上手だなあ

 

自分には、上手な文章を書く才能がないので
比較しても意味がないことはわかっていても、わかっていても
羨ましいというか、嫉妬しちゃうぐらい

 

そうか、漱石坊っちゃんのリズムに近いのかな

 

なんて、とりあえずの結論らしきものを出してみる
そうでもないと、なかなか前に進めないのだ

 

この上手な文章に支えられているのが、
もちろん、彼女たちのその後の人生だ


筆者である「私」が日本に帰るので、友人たちとも別れなくてはならない


「私」が日本に帰って数年後、1968年……そう、プラハの春がおこる


「人間の顔をした社会主義」を目指したプラハの春
ソ連ワルシャワ条約機構の戦車によってつぶされて終わるのだが、

 

自主管理路線でソ連と違う社会主義を目指すユーゴスラヴィア
チャウシェスクの独自外交を進め、ソ連と距離を置くルーマニア
中国ともソ連とも離れ「自主独立路線」の日本共産党
1974年軍政崩壊まで戦後の内戦が事実上続くギリシア


「私」も、友だちたちも、自分たちの意思とは違う時代の流れに翻弄されざるを得ない
子どもの時は一つのクラスにいた仲間たちも離れ離れになっていく


最初のうちは友人たちと手紙を交換していても
お互い思春期から青年へと成長する中で音信不通になっていく


そして、1989年「東欧革命」
「世界」は崩壊し、一変する


ベルリンの壁は壊され
ルーマニアの革命でチャウシェスクは殺され
ユーゴスラヴィアは泥沼の内戦を経て解体していく


「私」は再び級友に会えるだろうか?

 


しかしなんですね
「東側社会」の教育と現実
なかなか知る機会がないので、楽しく読める


たとえば、
ある生徒が絵のうまいことを見つけると、先生が学校中に伝える
「芸術的才能はみんなのもの」
ソ連というよりは、ロシア式教育感が面白い


人懐っこいロシア人気質
そして同時にソ連大国主
社会主義社会にある格差の問題
(自分の家の召使を「同志」と呼ぶ矛盾)


理想と現実の両方を否が応でも見せられたこどもたち


1960年代から60年
1989年からも30年以上
彼らはその歴史の流れについて行けただろうか?


残念ながら作者は早くに亡くなってしまったが
(素晴らしい!とおもう女性作家・漫画家などがなぜか早くに亡くなる気が……)

 

その友人たちの老後には 幸あらんことを

 

 

 

009) 神話と伝説のあいだにあるもの

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当時はKoboパーク宮城 今は楽天生命パーク宮城 つまりは宮城球場

 

ナチュラル」という野球映画がある
とても美しい映画だ

 

 

父と子のキャッチボールで始まる

 

父と子のキャッチボールの風景
これこそ、アメリカの原風景である

 

と、
前世紀ならともかく、21世紀も半ばになりつつある今
断定することはできない

 

この父と子のキャッチボールは
アメリカの人々に郷愁を呼び起こさせる一つであるだろう
ぐらいかな


父とのキャッチボールから野球を学んだ田舎の少年ロイ・ハブスはメジャーリーガーになるためにシカゴへ列車で向かう
同じ列車に乗り合わせたリーグ屈指の強打者を、美女へのちょっとした鞘当てから争い、三振に取って天賦の才能を見せつける
そして、シカゴについた彼は……その美女に、銀の弾丸で突然撃たれてしまう

 

それから16年後
35歳になったロイ・ハブスは、弱小チーム・ニューヨークナイツにルーキーとして入団する
最初は干されていたロイは事故死したチームメイトに替わって出場しだすと、大活躍、
ダメダメだったチームもそれにつられてか、勝ち続ける

 

そんなロイの前に二人の女性が現れる
一人は、監督の姪、性的魅力があふれる美女、彼女と付き合うとロイはスランプに陥る
もう一人は、ロイの幼馴染、16年ぶりに再会し、スランプに陥った彼を救う

 

スランプを脱したロイのおかげでチームは勝ち続け、ペナントへもあと一歩
パーティの最中倒れたロイに医者は摘出された銀の弾丸をみせて、野球をこれ以上できない体だと伝える
さらに、オーナーは自分のチームが優勝しないようにロイに八百長を持ち掛ける

 

病み上がりのロイは、ペナントをかけたプレイオフに出場するが、三振し続ける

それを見ていた幼馴染はメモをロイに送る
2点差の九回裏、ロイは最後の打席に立つ

 

この打席が数ある野球映画の中で最も美しいシーンであることは間違いない

 

そして、父と子のキャッチボールで映画は終わる
……TheEnd


これは一つの英雄譚であり、伝説である
「古き良きアメリカ」を体現するヒーローとしてのロイ
その「良さ」は父から息子へと伝えられていくもの


一方、この映画の原作はバーナード・マラマッドの「The Natural」
邦題は「ナチュラル 汚れた白球 -自然の大器」あるいは「奇跡のルーキー」

 


映画と違って、この小説は英雄譚ではない
というか、神話であっても伝説にはならない

 

基本的な設定は映画と同じなのだが、
映画版のロイ・ハブスが過去とのつながり、そして未来へのつながりを持つのに対して
小説版のロイ・ハブスはそうしたつながりがない

 

シカゴで撃たれるロイと奇跡のルーキーとしてのロイをつなぐものはほとんどない
ロイは突然ニューヨークに降臨し、そして活躍をする

 

ロイをめぐる女性も意味合いが違ってくる
一人は監督の姪で、小説でも妖婦的な役割を演じるが、
もう一人は、若い娘のような体を持つ、33歳で孫をもつ女性アイリスである
彼女は母であり、妻である存在なのだ、そう、地母神ガイアのように
本来ロイの精神的主柱になるべき存在なのにもかかわらず、終始、ロイは監督の姪に執着する

 

食べすぎの結果倒れ、高血圧で選手寿命が少ないことを知ったロイは
監督の姪との今後の生活に執着するがゆえに、八百長の誘いを断り切れない

 

そして、最後のプレイオフの試合……

ロイは大きなファールをアイリスに当て、彼女のが自分の子供を身ごもっていることを知る
そして、それを聞いて八百長をやめ、勝つために全力を尽くすことを決意する

 

しかし、子どものころから一緒だった自作のバット「神童」を失ったロイには、
かつて少年時代のロイのような若いリリーフピッチャーを打てることなく三振に終わる

 

自己嫌悪に陥り、街を歩くロイに対して、一人の少年が新聞を見せる
そこには、「ロイ・ハブスに八百長の疑い!」の見出しが
「嘘だといってよ、ロイ!」
嘘とは言えず、ロイはさめざめと泣くのだった

 

 

死にかけの子供をホームランで助けたり、食べ過ぎで倒れるロイ
これらはもちろんベーブ・ルースの逸話であり

 

「嘘だといってよ、ロイ!」
これは、ブラックソックス事件(1919年におきた実際の八百長事件)の際の
「Say it ain't so, Joe!」という逸話である

 

ロイ・ハブスは、ベーブ・ルースであり、シューレスジョー・ジャクソンである
というよりも、野球そのものである

 

映画のロイは英雄なのに対して、

小説のロイは「自分の過去の生活からまったくなに一つ、学ばなかった」天才である
過去とのつながりがなく、過去から学ぶことのない天才は神になれても、英雄にはなれない
人間界とのつながりがないのだから

 

人間の手に入らないもの、添付の才能……無垢な天才「the Natural」

彼のストーリーは伝説ではなく、ギリシアの神々と同じような神話なのだ

 

人間の話と神々の話
ストーリーは同じでも全く違う……というお話

 

 

 

 


ところで、この無垢の天才、naturalってやつ
日本のマンガはその話が上手だよねえ

 

たとえば、
ガラスの仮面」の北島マヤ
のだめカンタービレ」の野田恵

 

実は、久しぶりに「のだめカンタービレ」を読んでいて、
「ああ、のだめはナチュラルだなあ」とおもったところから、今回の話題につながったのは内緒!

 

 

008) ハンフリー・ボガードとハードボイルド……名前も実は似ている……

答えるのに困る質問というのがある

 

その一つは「一番好きな映画はですか?」
(むろん、映画の代わりに、本でも、小説でもなんで入れられる)

 

一番好きな映画だって?

そんなもの、その日によって違うに決まっている

一番好きな映画は当然無数にある

 

しかし、「一番観た映画は何ですか?」という質問にはたぶん答えることができる

たぶん、それは「カサブランカ」だ

 

 

ご存じ、ハンフリー・ボガードイングリッド・バーグマンラブロマンス

 

アメリカが連合国として参戦した1942年に作られた映画なので
実は、反枢軸(日独伊)のプロパガンダがちりばめられている

 

が、それがいい

プロパガンダシーンがどれもかっこいい

 

たとえば……

店内のドイツ軍人たちが「ラインの守り」歌うのに対して
反独レジスタンスのリーダー・ラズロが「ラ・マルセイエーズ」を演奏させると
店内のすべての客が起立し、合唱するシーン

 

ここは、何度見ても鳥肌が立つ

Viva la France!
Viva la democratie!

と、一緒に叫びたくなる

 

カサブランカ」という映画の良さは、
ボギーのかっこよさ、バーグマンの美しさ……だけではなくて

ハンフリー・ボガード演じるリックの店に集まる人々の魅力だ

 

「As Time Goes By」を歌うサム、カサブランカの警察署長のルイはもちろんのこと
バーテンダー、ウェイター、カジノのディーラー、リックに振られた女性、
亡命に成功しそうなドイツ系の老夫婦、ギタリスト、ブルガリア人の若夫婦
掏摸(スリ)、リックのライバル店の亭主……

 

彼らの小さな行動の積み重ねが

プロパガンダの……いやいやラブストーリーに重厚さを出している

 

細かいシーンがかっこいいのよ!
ほんとうに!

 

友人の警察署長ルイはそれをよくわかっていたのだが……
カサブランカ」のリックは、シニカルだけど、実はセンチメンタリスト
現実的に見えるけど、実は弱い者の味方

 

ナチスドイツという敵があるので、やはりグッドマンにならざるを得ない
その意味では、ハードボイルドのヒーローにはなり切れていない

 

「マルタの鷹」

 

でも、ハンフリー・ボガードのかっこよさ

ここでいうのは、ハードボイルドのヒーローとしてのだが、


それは映画「マルタの鷹」のサム・スペード役にかなわない、と思う

 

 

「マルタの鷹」の原作はダシール・ハメット
ハメットはこの作品でハードボイルドというジャンルを作り上げたという

 

ハードボイルド……
ミステリーにもあまり詳しくないし、
中でもハードボイルドのジャンルは今までほとんど触ってないのだが……

 

じつは、フィッツジェラルドからヘミングウェイあたりに行こうと思った

しかし、何の気なしに「マルタの鷹」のDVDを取り出してしまい……

それとともに原作の小説も読んでしまったのだ

 

今回読んだ原作が
若干の読みにくさは、古い訳のバージョンだからかもしれない

 


今は新訳が出ているからもう少し読みやすいのだろう

 

 

私立探偵サム・スペードは、「妹が駆け落ちしそうなので取り戻したい」という若い女性の依頼を受ける
妹の駆け落ち相手を尾行したサムの相棒が殺され、さらにその駆け落ち相手も殺されて……

 

という、巻き込まれ型から始まり……

 

ここから、聖ヨハネ騎士団マルタ騎士団)の財宝=マルタの鷹の行方は……

 

と、広がっていくストーリーは読者(映画の場合、観客)をひきつけてやまない

 

ハードボイルドとは何か……

 

古典的、本格的な探偵小説が、アッパークラスの、そしてその大邸宅が舞台なのに対して
ハードボイルドは、邸宅の外側、そして街頭がその舞台になる

 

(ハードボイルドの)「探偵は紳士ではないから邸内に客として招かれることはない(妖艶な女主人に寝室に招かれることはあるけれど)。
彼は事件を依頼されると、ダウン・タウンに出てバーやクラブ、情報屋の店、安ホテル、かつての仲間の警官、娼婦、悪徳弁護士らと接触をとっては情報を取る」
(「ミステリーの社会学-近代的「気晴らし」の条件」 (中公新書) 高橋 哲雄 pp49)

 

 

しかし、小説ではなく、映画、しかも戦前の映画となると、
閉じられた空間での密室劇にならざるを得ない
(ハリウッドがロケ中心の映画作りするのは、まだずっと先のこと、この時期はセットでの撮影が中心)

 

そこで、使われる小道具が電話である

 

電話で呼び出され、電話で指示を出し、電話で……

 

原作でも、電話は多く使われているが、
映画「マルタの鷹」のストーリーを引っ張るのは、必ずといっていいほど電話のシーンである

 

探偵事務所に、サム・スペードの住居に、ホテルのロビーに電話があり、そして街頭には公衆電話
(自分の自動車をサム・スペードは所有していない)

 

いつでも、どこでも電話が使える社会、それがサム・スペードの社会であり、
どこにいても即時的に人とつながる社会の出現

 

本格的な探偵小説が、アッパークラスを対象とした近代の物語ならば
ハードボイルドは1920年代以降の現代社会の物語に他ならない

 

ハードボイルドのヒーロー像

 

探偵サム・スペードはホットでありつつ、クール
まさにハードボイルドのヒーローといえるだろう

 

さまざまな女性に手を出すし、さらには平気で突き放すし……
警察に反抗的で、脅しや嘘は日常茶飯事

 

そう、ジェントルマンでは決してない

 

アイリーン・アドラーを「あのひと」と呼ぶホームズ(ボヘミアの醜聞)や
初期はともかく、中期以降好々爺になってしまうポアロ
とは、全く違う魅力なのだ

 

敵にだって、警官にだって、ヒロイン?に対しても
冷徹な言葉をまくしたてるサム・スペード=ボギー

 

しかしだからといって、利己的かというと、意外とそうではない

 

サム・スペードは言う

「いいかね、男というものは、自分の仲間が殺されたら、黙って引っこんではいないものと、世間から考えられているのだ。
このことは、当人がその仲間をどう思っているかということとは、関係がないんだ。
殺された男が自分の仲間であれば、何かしなければならないということになっているんだ」
(「マルタの鷹」 (創元推理文庫) ハメット pp335-336)

 

ここには一つの行動規範がある

 

「ハードボイルドの探偵たちはそれなりに十分倫理的であり、しばしば禁欲的でさえある。
彼らは危険とは不釣り合いにわずかな謝礼のため(というよりは多くのばあい自己満足のため)、信頼できるかどうか心もとない依頼人のために身を挺するのである。
彼らはイギリス・ミステリーの倫理的背景になっている″法“と″秩序″および″正義″のうち、前二者はほとんど無視し、もっばら″正義″を行動規範とする」
(高橋 哲雄 pp147-148)

 

その結果、
単に導入部だったはずの相棒の死と、その犯人とはだれかが、最後にもう一度クローズアップされる

 

そして、ラストシーンへ……

 

やはりラストシーンは映画が素晴らしい
(以下のシーンは原作にはない)

 

サム・スペードの部屋に犯人を捕まえに来た刑事が証拠品の黒い鳥の置物を持って尋ねる
「重いな、これは何だい?」

 

サム・スペードは答える

“The stuff that dreams are made of”
「夢がつまった塊さ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

007) 港の見える丘公園にて

横浜を歩く

 

港町は、坂の町である
長崎も、神戸も、横浜も

 

そんな横浜を歩く

 

山を上ったり、下ったりしながら、
山手公園、元町公園と写真を撮りつつ、散策する

 

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山手公園 日本庭球発祥之地

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元町公園 ベーリック・ホール

古い洋館が立ち並ぶ街並み

 

外人墓地の横を抜けて、正面に港の見える丘公園

 

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港の見える丘公園には、今回の目的地
大佛次郎記念館がある

 

大佛次郎

鞍馬天狗」シリーズ、「赤穂浪士」、「天皇の世紀」(未完)などで有名

 

じーさんのブログつながりにおいては
膨大な資料を基に執筆された、歴史ノンフィクション「パリ燃ゆ

 

 

大佛次郎がパリ郊外のサン・ドニの美術館を訪れるところからその物語は始まり、
ナポレオン三世の時代、普仏戦争、そしてパリ・コミューンの盛衰を余すところなく描いている

 

そう、それは、名もなきパリ民衆による自治政府パリ・コミューン」への
1500ページを超える一大叙事詩なのだ

 

人生の中で、二回ほど読んだが、
さすがに今回はまだ読んでいない
(さわりのさわりだけ目を通したが)
時間があれば、久しぶりに読みたいと思うのだが……

 

大佛次郎記念館

大佛次郎記念館は大きなミュージアムではない

 

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大佛次郎記念館 入口

テーマ展示 パリ・コミューン150年記念「パリ燃ゆ~名もなき者たちの声」

 

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土曜の午後、秋の割には暑い日

 

パリ・コミューンというあまりにもマイナーなネタにもかかわらず
パラパラと人が集まっている

 

パリ・コミューンの流れと、
それに関する版画や資料が展示されている

 

なかには、
ヴァンドーム広場にあるナポレオン円柱の破壊を描いた版画もあり、
前に紹介した二冊の違いを思い出す

 

この破壊について、次のように語られている

「お祭り行事に貴重な時間を空費した」(桂圭男(1971) pp.190)
「民衆はつぎつぎと革命の儀式をつくりだした」(柴田三千雄(1973)  pp.126)

 

この相反する評価
パリ・コミューンを語ることは難しい

 

それは未完のまま生まれ、未完のまま終わってしまったはかなき夢だから

 

ご存じの通り、
現在のパリ・ヴァンドーム広場には、この円柱はいまだに立っている
パリの象徴として

 

ja.wikipedia.org

 

パリ・コミューン崩壊の後、立て直されたのだ

 

パリ・コミューンに参加し、この破壊を主張した写実主義画家クールベは、このとき、膨大な再建費用を要求されたという
彼はフランスを離れ、スイスに亡命し、失意の中に生涯を閉じる

 

ヴァンドーム広場にあるナポレオン円柱の破壊

 

祭りとしての革命の象徴
いや、パリ・コミューンそのものの象徴なのかもしれない

 

かくも短き名もなき者たちの声

 

港の見える丘公園にて

 

大佛次郎記念館を出てみると、まだ陽は高い

遠くに、ベイブリッジが見えるこの風景

 

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この風景で思い出すのが

橋本治の青春小説・桃尻サーガ(全6冊!4000ページをはるかに超える)の最終章

 

 

サーガの主人公たちの2人が
港の見える丘公園の展望台でベイブリッジを眺めるシーン

 

「青春」というものは必ず終わり
だからこそ、きちんと終わらせてやる必要がある
と、橋本治は言う

 

「青春」を終わらせるために
橋本治はこの風景を選んだ

 

サーガ最終巻「雨の温州蜜柑姫(おみかんひめ)」の時系列は逆になっている

未来から過去へと時間は逆行する

 

つまり
主人公の少女の未来、「その後」はわかっている

 

しかし、最終章の20歳の主人公にとっては
その未来はさまざまな選択肢の一つなのだ

 

まだ未来は始まってない

 

「青春というのはそんなもので、そんな時間はまだまだ永遠にあった」(「雨の温州蜜柑姫」橋本治 1993 p394)

 

 

未来への矢印

 

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ヴァンドーム広場で円柱を倒したパリの民衆たちも同じ思いだったのかもしれない

その後の悲劇「血の一週間」を知る我々は「時間の空費」にしか思えないが……

 

「革命」というのはそんなもので、そんな時間はまだまだ永遠にあった

 

それは未完のまま生まれ、未完のまま終わってしまったはかなき夢

 

そんな民衆たちの描いた「未来」は
今と同じものなのか、それとは違う「未来」なのか

 

「未来へ」とある矢印の先にあるものは一体何だったのだろうか

もう一度考える必要があるだろう

 

 

 

 

 

橋本治の偉大さを語るのは、また次の機会に!