過去との対話を楽しめる…そんな人間でありたい

まずは読んだ本の紹介……そして広がる世界……だといいなあ

029) アニメーションではなく、アニメが生まれた話

「先生、これじゃアニメーションになりません」
杉井はすがるような気持ちで手塚へいった。
「いえいえ、ギッちゃん」と、手塚はまたもや笑顔で応じてきた。
これはアニメーションではなく、〈テレビアニメ〉です。
そういったという。
『日本動画興亡史 小説手塚学校 1 〜テレビアニメ誕生〜 』 (皆河有伽 講談社 2009年 p236)

 


アニメーションではなくて、アニメが生まれた瞬間のお話
このテレビアニメの発明なしには、今の日本のサブカルチャーは語ることはできないだろう


その源流(の大きな部分)に手塚治虫がいることを知らない人はいまい


上記の「手塚」はもちろん手塚治虫であり、
もう一人の「杉井」はアニメ版『タッチ』を作った杉井ギサブロー
日本最初の本格的テレビアニメ、誰でも知っている『鉄腕アトム』製作の一シーンである


この日本のアニメーションの歴史、特に、戦後のテレビアニメが生まれる頃の話
これがインターネットに意外と転がっているのが面白い


オーラルヒストリーという言葉があるが、
まさに、関係者のさまざまな証言がネット上に残されているのだ


ちょうど2000年ぐらいからのネットの勃興の時期は、戦後のアニメーションを担った人の引退の時期に重なり
インタビューが多くなされ、それが記事として公開されたのではないだろうか
(逆にSNSが発達した今の方が、この手の情報は散逸して、残らない可能性が高いだろう)


こうした数多くの証言を丁寧にたどれば、かなりのことがわかると思う
だからぼくがあえて書く必要はないのかもしれない


でも、今回ぼくが書こうとおもったのは、
それは、昨年2021年、二人の偉大なアニメーターが亡くなったからだ
60年前、アニメーションからテレビアニメが生まれたとき、最前線にいた二人である


一人目は、山本暎一
上記、手塚治虫が作った虫プロに創成期からその崩壊まで、ほぼ一貫して在籍した唯一の人物である
鉄腕アトム』製作に参加し、初のカラー作品『ジャングル大帝』を作り、
虫プロ崩壊後は『宇宙戦艦ヤマト』の企画構成に携わることになる


大資本傘下の東映動画が年に一本長編アニメーションを作れるかどうかの時代


そのような時に、週に30分のテレビアニメーションを作ろうというのだから、正気沙汰ではない


今までのアニメーション技術はごみ箱に捨て去られるしかない
今までの動くアニメーションとは違い、
動かないかわりに、キャラクターとそのストーリーで視聴者を引きつけるテレビアニメが生まれるのである
(CGが普及して状況が変わってきたとしても、日本のアニメの根本は現在でもそのままである)


それでも、山本たちスタッフの全人格的な没入を強制され、日夜問わず、毎日徹夜で製作に没頭することになる
昨今のブラック企業どころの話ではない


しかも、手塚は膨大なマンガ連載を維持したうえで、アニメーションの製作を指揮するというのだ……
さらにテレビ局への製作費をとてつもなく安く請求し、ダンピングで市場を独占しようとした……
もっとも、当時から言われてる数字よりも、実際にははるかに高い製作費が支払われていたという(上記 p258-267)


まさに、てんやわんやの日々であった


山本暎一は、のちにその顛末を一部小説という形で描いている
虫プロ興亡記-安仁明太の青春』 (山本暎一 新潮社 1989年)

 

 

情熱と狂乱の日々……
そして、キャラクター商売(マーチャンダイジング)がこの狂乱に拍車をかけていく



……
こうした手塚治虫虫プロダクションのテレビアニメの嵐に対して
批判的であり続けたアニメーターがいた


東映動画系の人々、宮崎駿高畑勲、そしてその先輩である大塚康生などがその代表だろう


2021年に亡くなったもう一人の偉大な偉大なアニメーター、大塚康生
アニメーターという言葉で代表される人を一人選べ、といわれたら、ぼくは彼をあげるだろう


彼はその著書『作画汗まみれ 改訂最新版』 (大塚康生 文春ジブリ文庫 2013年)の中で当時の状況を述べている
(この本は、東映動画の創成期のころが詳しく描かれ、さらにアニメーション技法についても詳細される、素晴らしい本である)

 


「私たちは虫プロでもあくまで東映と同じ技術水準、つまり2コマ撮りのフルアニメーションを製作するのだろうとばかり予測していた」(p134)
放送された『鉄腕アトム』は、「極論すると『あれじや誰も見ない』と思うほどのぎこちない動かし方」(p140)
「『アニメーションは動かすものだ』『キャラクターは演技しなければならない』と信じていた私たちにとっては到底受け入れ難いもの」(p140)


しかし、実際に『鉄腕アトム』は大ヒットをしてしまう


「本来そうあるべき」であるアニメーションのかわりに、「手抜き技術」が「技術」となり、継承される
それがテレビアニメなのだ


大塚のこのグチはよくわかるし、アニメーション技術論ではまったくその通りだと、ぼくも思う


実際、テレビアニメが定着し、『宇宙戦艦ヤマト』以後のアニメ―ブームが起こった、ちょうどそのころに作られた二つの長編アニメ


手塚治虫の作った『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』(1980年)
宮崎駿が作り、大塚康生が描いた『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)

 


アニメとしての動き=演技はもちろんのこと、映画としての演出レベルにおいても、やはり雲泥の差があるといわざるを得ない


例えば、『カリオストロ』の食堂でルパンと次元がパスタを取り合うシーンの動き、顔の表情の変化……
そして、それが映画本編のストーリー背景を説明シーンとして無駄なく用意されている
映画ってこういうものだよねええ、といいたくなるシーンだ


そして、その後の宮崎駿を活躍については、周知のとおりである


だから大塚康生にしろ、宮崎駿にしろ、アニメーション作家としての手塚治虫を否定したい気持ちはよくわかる
じっさい、その通りだろう


ぶっちゃけ、最初から最後まで、手塚治虫は素人だったということだ
(素人だからこそ、彼の実験的アニメは逆に素晴らしい)


アニメーション技術の基礎も、そして映画作りの基礎も学ぶことなく「自分」でやってしまう手塚だからこそ
私財をなげうって虫プロダクションを作り、そして、テレビアニメを作り上げてしまった


60年前の情熱と狂乱……
明治日本があたかも青春時代だったように、
戦後日本もやはり青春時代だったのだろう


そして、ぼくらはその恩恵のもとに21世紀を迎えている
ぼくはアニメーションも、そしてアニメも大好きだ、と大きな声で言える

 

補足①
大塚にしろ、宮崎にしろ、そして多くの人が、手塚のアニメ制作費のダンピングが、アニメ業界を重労働低賃金をもたらしたという
しかし、それは正しいのだろうか?
そもそも東映動画時代からアニメーション制作は重労働低賃金だった
例えば『安寿と厨子王丸』の際には、東映動画の動原画家の6人に1人が入院している(『手塚学校』p146)
それゆえ、当然といえば、当然だが、組合運動が盛んになり(まさに、大塚、宮崎、高畑がその中心)、
その結果、それを嫌がる人々が虫プロに移籍することになる
実際、大塚が「同期」といっているメンバーもその大半が東映動画をやめている(『作画汗まみれ』p72-73)
手塚と虫プロだけに責任を押し付けるのは、やはり問題があるといわざるを得ない


補足②
アニメーションの基礎が動きであり、それこそが演技である
しかし、あえて「動かさない」という表現方法を使用した作品もある
山本暎一の『哀しみのベラドンナ』(1973年)がそうだ
「『哀しみのベラドンナ』のアニメートの方針を、人間の外面の日常的なアクションは、、原則として動かさないで止めの画にし、人間の内面をあらわすものや、象徴的なものは、たんねんに動かす」
「アニメーションの動きが、日常的な身ぶりの説明に終始したのではつまらない。象徴性に富んでこそ、深みをもち、芸術にも、文化にも、なり得る」
と、山本暎一は説明する(『虫プロ興亡記』p299-300)
公開から半世紀を経るが、『哀しみのベラドンナ』は今なお、いや今こそ輝く作品である

 

 

 

028) アニメではなく、アニメーションのお話

「よく かけとる だが…… きみは マンガ映画は 作れんな」
タンバササヤマからきた宮本武蔵少年は、40年もマンガ映画に身をささげている断末磨老人に、自分の絵を否定される

 

「先生 待ってください」と、武蔵少年は懇願する。
「どうして ぼく作れないんです 教えてください どうぞ わけを 教えて ください!!」

 

「きみの 絵は動きが 死んどる!!」
「フイルムは 生きておるんじゃ!」 老人は一喝する

 

手塚治虫『フィルムは生きている』(手塚治虫漫画全集55 1977年 p12) より

 


このマンガが執筆されたのは1958年、アニメーション制作自体がまだまだ未熟な時代
アニメーション制作に夢を見る宮本武蔵とライバル佐々木小次郎のお話

 

武蔵の「妹」になり、応援するヒロインお通さんがかわいい
(「彼女」ではなく「妹」になるのが、当時の大人の事情)
髪の毛を切って男の子格好もするし……
今どきといえば、今どきのヒロインだ

 

武蔵と小次郎のラストの決闘(むろんアニメーション制作の)も熱いし、
武蔵少年の……当時の手塚治虫の情熱にあふれるこのマンガを、ぼくは愛してやまない

 

さてさて、ぼくも多分に漏れずアニメで育ってきたわけで、
アニメーションが大好きである


二か月ほど前
サン=テグジュペリの「星の王子さま」(内藤 濯・訳)「あのときの王子くん」(大久保ゆう・訳)のことを書いた

 

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そこで「星の王子さま」つながりで
『リトルプリンス 星の王子さまと私』(2015年)を観る

 


名門学校入学の準備のために、ある街に引っ越してきた少女は、母に「人生設計」を提示され、一分一秒も無駄にしない生活を送ることになる
しかし、隣の家の風変わりな老人が語る、かつて彼が砂漠で会った少年「星の王子さま」の物語に少女は興味を持つ
そして、少女と老人は友人になり……


楽しいアニメーション映画である


現代のCGアニメーションはやはり素晴らしい
リアルであり、ディフォルメされ、スムースであり、コミカルである


アニメーション、それも3DCGだから表現できる動き満載!


一方、老人が少女に語る「星の王子さま」のお話部分は
話を聞いている少女の想像の世界といってもよいが
和紙などを使ったストップモーションアニメーションで作られている


原作の挿絵のイメージがやはり強いので
そこを和紙の持つリアリティな質感を生かしたアニメーションになっている


ディジタルのCGが作品上、リアルな世界で
アナログの和紙で作られたものが、空想の世界
考えてみると、ちょっと不思議


二つの世界が混合するアニメーションということで、
ぼくが思い出したのは、1945年に作られた『錨を上げて』という映画だ

 


休暇上陸でハリウッドにやってきたふたりの水兵の恋物語
ジーン・ケリーフランク・シナトラの二人が踊ったり、歌ったりする、それは楽しいミュージカル
ジーン・ケリーのダンスのすばらしさは言うまでもなく
シナトラが、今のアイドル的立場で、優男役なのも、その後の彼を思うと、とても面白い
さらに本人役で出演のホセ・イトゥルビのピアノも素晴らしいよ!


さらにここで取り上げたいのは、物語の中盤
ジーン・ケリートムとジェリーのジェリーとのダンスだ
そう、実写のジーン・ケリーと、アニメーションのジェリーが共演する


実写とアニメーションの見事な調和
1945年、そうまだ戦争が終わってない時期に公開された映画とはとても思えない
YouTubeにもクリップが上がっていると思うので、興味あるかはぜひ~
もちろん、本編を見たほうがはるかに面白いですがね


さて、
ストップモーションアニメーションは静止している物体を一コマずつ撮影して、動くように見せる
紙、切り絵、人形、クレイなど、さまざまなものを使う
なかでも、クレイアニメーションの『ピングー』が有名だろう


今はCGアニメーションが主流になったので、ストップモーションアニメーションは数が減ってきている


そのような状況の中で、
ストップモーションだけで作られた映画もあるという
それは、観るしかないでしょう!


というわけで『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(2016年)を観る

 

KUBO/クボ 二本の弦の秘密(字幕版)

 

和風のファンタジー世界で、魔法の三味線を持つ碧眼の少年KUBOが擬人化された猿とクワガタとともに
父と母、そして自分の左目を奪った、祖父である月の帝と戦わねばならない物語である


KUBOが三味線を奏でると、折り紙が動き出し、物語を紡ぐ
命を与えられたかのような折り紙の動きは見事だ


折り紙だけでなく、パペットの動きには独特のギクシャク感がある
CGの滑らかさとは違うストップモーションならではの動き


敵キャラのがしゃどくろのパペットは5mの高さになるという
(エンディングで、スタッフがそれを動かすシーンを垣間見せてくれる)
これを一コマ一コマ動かす、まさにストップモーションアニメーション
迫力満点の映像を楽しめる


というわけで、3本の映画を紹介してみた
錨を上げて』を別として、
『リトルプリンス 星の王子さまと私』『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は現代のアニメーション映画であり
言ってしまえば「子ども向け」になるだろうが、十分に楽しむことができた
たぶん、動きをみているだけで楽しいからだ


生命のないものにanima(魂)を与えて、動かす
それがアニメーション


フィルム(今どきフィルムは使わないけどw)は生きておるんじゃ!


次回はアニメーションではなくて、アニメの話の予定

 

 

027) 国家、国民、国語の誕生

明治中期以降、初詣という行事が鉄道会社によって作られた
というのが、前回のお話

 

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川崎大師平間寺成田山新勝寺こそ 初詣のオリジン)

 

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初詣のための乗降客を誘致するために、鉄道会社は宣伝合戦をして
その結果、初詣の客はうなぎ登りに増えていく

 気軽に郊外を散策し、かつ名利に参拝できること
当時の人々に、これが訴求力を持っていたことはよくわかるが


それ以上に感じるのは、新聞が持つ宣伝力=影響力の大きさだ
(当たり前だが、ネット、テレビ、ラジオはまだない、大衆雑誌もまだ未発達)


鉄道会社が初詣を作り上げただけではなく
新聞のその一端を担っていたのではないか?
新聞の普及こそが初詣文化を生んだのではないか?


残念ながら
ぼくの電子本棚をのぞく限り、明治のメディアについて。直接語った本は見つからなかった

 

そこで、今回

日清戦争─『国民』の誕生」 (講談社現代新書) 佐谷 眞木人(2009年)

を読んでみた


その他、以下の本も参照した

「日清・日露戦争-シリーズ日本近現代史〈3〉」 (岩波新書) 原田 敬一(2007年)


日清戦争とはどんな戦争か
それを細かく説明するつもりはない
ただ、一般的な文脈でとらえると、日清戦争のイメージは薄いだろう


日露戦争の勝利の結果、日本は不平等条約を改正し、幕末開国以来の課題を解決し、植民地を持つ帝国へと転換することになる
それ以後、国家目標と国民目標が乖離し始め、大正デモクラシーの時代を迎えることになる……


つまり、日露戦争が歴史のターニングポイントであって、日清戦争は過程としてのみ扱われるわけである


このような歴史観に対して、本書「日清戦争─『国民』の誕生」は日清戦争こそターニングポイントであったと主張する


日清戦争が「国民」を生んだということになる。日清戦争を共通体験の核として、日本は近代的な国民国家へと脱皮したのである。(「日清戦争─『国民』の誕生」p7)


さまざまなメディアは、日清戦争という出来事を社会的な共通経験へと再編成し、結果として「日本人」という意識を広く社会に浸透させた。それは、日本が近代的な国民国家へと姿を変えていく契機となっている。日清戦争は、新しいメディアによって社会的に共有され、日本人の共通体験として記憶に刻まれた。(「日清戦争─『国民』の誕生」p12)


川上音二郎、「死んでもラッパを口から離しませんでした」、流行歌、戦争ごっこ、児童文学、義援金、大祝捷会、モニュメント……


新聞だけではなく、さまざまなメディアを等して、戦争は語られ、人々へと伝わっていく
国家を通じての共通体験を等しく持つ国民が生まれる


戦争はもはや、他人事ではなかった。戦争は社会全体で支えられており、その意味では誰もが「当事者」だった。国民によって支えられた戦争という意識が、このとき成立した。それは国民と運命をともにする国家の誕生でもある。(「日清戦争─『国民』の誕生」p173)


国民が生まれ、さらに「国語」も生れる


大槻文彦が、日本語の体系化をめざして、 一八八九年から九一年にかけて日本語辞書『言海』全四冊を出版した時、「国語」なる熟語は採用されず、「日本語」で説明されていた。ところが、 一八九七年に『広日本文典』全二冊を刊行した際には、世界各国の言語を「その国の国語」という、と「国語」用語と概念を示した。日清戦争のもたらした「国民」概念は、理念としての「国語」を生み出したのである。(「日清・日露戦争-シリーズ日本近現代史〈3〉」 p114)


国家を生み、国民を生み、国語を生んだ(この順番に生まれたのであって、逆ではない)日清戦争


国家、国民、国語の間の、まさにその名の通り、媒体になったのが、メディア、特に新聞である


戦争の開始とともに、新聞各紙は多くの従軍記者を送った
有名なところでは、正岡子規国木田独歩……
号外合戦を展開し、速報性を競う各紙


かくて、新聞の発行部数は急速に増大する


発行部数では『国民新聞』は一日7000部から20000部へ、『大阪朝日新聞』は76000部(1892年下半期)から117000部(1894年下半期)へ、『東京朝日新聞』も76000部(同期)へ、『萬朝報』は五万部へと増加した。(「日清・日露戦争-シリーズ日本近現代史〈3〉」 p161、一部漢数字をアラビア数字に改めた)


この時以来、21世紀ネット社会の到来によって急激に部数を減らすようになるまで、
否、部数を急速に減らしてもいまだに(ネットニュースの配信元の多くは新聞社だ)、
100年以上、新聞はメディアの中心に鎮座することになる


新聞によって、作り上げられた共通体験が、いつしか伝統文化へと認識されるようになっていく
その中身があいまいなままで、
否、あいまいだからこそ(カセット効果)、国民的行事として普及するのだ


“正月にどこかにお参りする”

初詣も日清戦争を契機にして生まれた、さまざまな「伝統文化」の一つなのだ

 

 

026) 初詣に行きましたか?

あけましておめでとうございます
今年も少しずつブログを書いていきたいと思っています


お正月、初詣に行きましたか?
コロナで去年行けなかった人が多く、今年は二年ぶりとばかりに行った人も多いのでは?
散歩途中に見かけた、そこそこ大きい神社はどこもすごい人の列!
「日本人」(こういうカテゴライズは正しくはないが、便利なのでw)は初詣が好きなんだなあ


ちなみに、ぼくは今のところ、初詣をしてない
人ごみ嫌いだし、並ぶの嫌いだし……天邪鬼だから


さて、ここで、初詣に関する問題
①初詣は、明治神宮成田山新勝寺川崎大師平間寺……やはり人が集まるところ!
②初詣は、氏神様、やはり近所の神社に参拝する!
どちらが由緒正しい初詣なのだろうか?


実際には①をしたいけど、やっぱり近くの②という人が多いだろうとは思うが……

 

ありていに答えを言えば、
①に近いけど、②でもまったく問題はない
というか、どこに詣でようが、どうでもいい
そういう気軽さこそ初詣なのだ

 

①に近いといった理由
川崎大師平間寺成田山新勝寺に参拝することが初詣の始まりだから
初詣というと一般に神社だけど、この二つは寺院なのもオリジンたるゆえんだろう


初詣の始まり?


そう、初詣という風習は古いものではない
近代(明治中期)以降生れたものであって、厳密な意味では伝統文化ではない
むしろ近代だからこそできた文化なのである


初詣は鉄道会社が作り上げた文化なのだから

 

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川崎大師駅


それを僕に教えてくれたのは以下の本である

 

「鉄道が変えた社寺参詣-初詣は鉄道とともに生まれ育った」 (交通新聞社新書) 平山 昇 (2012年)


この本は僕の好奇心をとても満足させてくれた、よい本である


前近代までは、正月には恵方詣が行われていた
居住地から恵方の方角の社寺に参拝するのである


それに対して明治中期以降鉄道網の発達により
気軽に郊外を散策し、かつ名利を参拝できるになると
恵方や初縁日にこだわらない行楽的な参拝が生まれてくる


しかも、乗降客を増やすために、鉄道会社はあの手この手
とくに、複数の鉄道が乗り入れるところは、会社間での競争が行われる


たとえば
川崎大師平間寺は、国鉄(JR)と京急
成田山新勝寺は、国鉄(JR)と京成が顧客誘致合戦を繰り広げた
(正確に言うと、「国鉄」となったのは戦後)


恵方の方角は毎年変わるため、恵方詣だと数年に一度しか当たらない
恵方じゃない年は、乗降客が減ってしまう恐れがある
だったら「正月にどこかにお参りする」というあいまいな初詣の方が使いやすい


「初詣は“正月にどこかにお参りする”という以外には特に中身がない曖味な言葉であり、その曖味さゆえに鉄道会社はこれを毎年の宣伝に活用するようになった。まさに『ことばに意味が乏しいことは、人がそれを使わない理由になるよりも、ある場合にはかえって、使う理由になる』(柳父章)という名言どおりである。」(「鉄道が変えた社寺参詣-初詣は鉄道とともに生まれ育った」 p129)


柳父章は、かつて、「自然」について語った時に、翻訳語のカセット効果というワードで語った

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恵方詣は、鉄道会社間の宣伝競争の結果、初詣という言葉との競争に負ける
言葉の中身=参拝の意味がないからこそ、初詣は「伝統文化」になったのだ

 初詣が生まれ育った過程については、これ以上の詳細は割愛する
本書「鉄道が変えた社寺参詣-初詣は鉄道とともに生まれ育った」 を読んでいただければ幸いである


なかでも、
福男選びで有名な西宮神社の十日えびすも
現在の新暦1月10日なのは、事実上、阪神電車が作り上げたもので、
西宮神社の意向と若干異なっていた

 

この経緯が詳しく語られている部分は
鉄道会社の意向と、神社側の意向が同床異夢のところもあって非常に面白い

 

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鉄道会社の熾烈な競争と、宣伝への努力が初詣を生み育てたわけであるが、
この鉄道の力とともに、新聞の力も思い起こさせる


このメディア社会の成立について、
電子本箱をのぞいてみたところ、ぼくは直接的な本をもっていないようだ


今後、メディア論の本も手に入れて読んでみようと思うが
取り急ぎ、今回の話に参考になるべきもので、ぼくが持っているものは、

 

日清戦争─『国民』の誕生」(講談社現代新書) 佐谷 眞木人 (2009年)

 

だと思われる。


次回は、この本を読みなおすつもり……一度読んでいるけど、詳細は忘れちゃったw

 

 

025) ポール・ゴーギャンを求めて

ぼくはポール・ゴーギャンについて、何かを語られるほど、ゴーギャンや西洋絵画に詳しいわけではない
ただ、最近、といってもここ数年という意味だが、とても気になる画家なのだ
それはなぜだろう?
ぼく自身にも答えが出ているわけじゃない

 

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昔々、高階秀爾の本を読みながら、お勉強をした時
(久しぶりに高階秀爾の本を読もうっと)

 

ja.wikipedia.org

 

西洋絵画の一つのテーマに「光(色と置き換えてもよい)を描く」があるのではないか
そう思ったぼくは抽象画を眺めてみた

 

何が描いてあるか、さっぱりわからなかったモンドリアンも何だか分かった気になってくる

 

目に映る光=色だけを抽出し、単純化された世界
これがモンドリアンの絵ではないだろうか?

 

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現実のひかりを前にした、実は具体的な絵に違いない


Eureka!


ぼくはこのときの分かった感を「モンドリアン・ショック」と自分自身で名付けたのだった

 


それにたいして、ゴーギャンの良さって何だろう……
正直なかなか言葉にすることができないのがもどかしい


じわじわとじわじわと心の奥底に生まれてくる感覚
二度、三度、ゆっくりと鑑賞したくなる気持ち


株式仲買人だったゴーギャンは余暇に絵を描くところから始め、34歳で画家を目指す
ゴッホと暮らしたが、関係はあっという間に崩壊し、ゴッホは耳を切る
フランスから二度タヒチにわたり、さらにマルキーズ諸島へ渡り、そこで客死した
二度目のタヒチ滞在であの有名な「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描く

 

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ぼくは今「客死」と書いたが、内なる野蛮人を自覚し、文明から脱出したゴーギャンは「客死」なのだろうか?


ゴーギャンとはいったいなにもので、何を描こうとしたのだろうか


ゴーギャンが一体どう人物であるのか、一つの回答を探して
映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」(2017年)を観てみた
ヴァンサン・カッセルゴーギャンを演じだ作品だ

 


この「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」は一度目のタヒチ滞在の話になる
そこで得た現地妻テハーマナ(通称テフラ)という少女との「愛」の話だ


この映画で描かれた二人の関係を「愛」と呼んでいいのか、
今のぼくにはわからない
もう少し勉強が必要であろう


ゴーギャン自身が書いた「ノアノア」というタヒチ滞在記(むろんこれもフィクション部分があるだろう)をまだ読んではいない
映画における、ふたりの関係で現れる感傷的な部分は、事実のというより、「ノアノア」をもとにして書かれていると思われる
(テハーマナが当時未成年、しかもローティーンであったことは映画で触れられることはない)


とりあえず、電子本箱の中から取り出した
ゴーギャン-芸術・楽園・イヴ」(講談社選書メチエ) 湯原 かの子(1995年)
この本だけが、いまのところぼくの種本だからだ

 


この本は、テハーマナとの生活について、以下のようにまとめられている

 

「画家はテハマナという個人を通して、マオリ文化の総体に触れることができる。自分のイメージした原初の楽園を、自分の夢想したイヴを、テハマナに投影することができる。だからこそ、テハマナはゴーギャンにとって楽園の伴侶たりえたのである。」(「ゴーギャン-芸術・楽園・イヴ」p154)

 

ゴーギャンタヒチの旅ともちろん同等ではないが
ゴーギャンを探す旅はもう少し続ける必要があるだろう


久しぶりに西洋絵画史の本も読まなくてはならないし
ゴーギャン関係の本をまだまだ読む必要がある


世紀末(というと普通は19世紀の)、ゴーギャンは文明から離れようと意図し
楽園とイブを求めて南に旅立った


次の20世紀、肥大化した文明が人々に大きな悲劇を生んだことは周知の事実である
さらに21世紀……さらに巨大化する文明、ゴーギャンの夢見た楽園は残っているのだろうか


「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
ゴーギャンの問いかけに答えを出せる人はいまだいない

 

 

024) 世界史を学びたい人へ……「市民のための世界史」

今どきは、歴史を学びたい・知りたいと思ったら
YouTubeの動画を見るのだろうか?

 

ぼくもYouTubeを好きなので、結構いろいろとみるが
記録映画・ドキュメンタリーなどの一部を除いて、
歴史ものの動画を見ることはたぶんないだろう


仮に「そんなこと知ってるわ!」ということばかりだったら、
それこそ動画視聴の時間がもったいないし、
そこで語られる言葉が「事実」であるか、検証がほぼできないからである


これは動画だけでなく、Wikipediaにしろ、一般的な書物にしろ同じである
まともな文献目録がないものは、信用度がやはり下がる


歴史は科学であるか?という問いについて
「イエス」とぼくは大きくうなづくことはできない


だが、科学的であろうとする姿勢は必須であり
それがないものは「歴史」とは言えず「ファンタジー」に過ぎない
(この言い方だと、ファンタジーがあたかも下位であるかのように誤解されてしまうね、申し訳ない)


むろん、このブログでも同じことで
本当は、バカ話も含め、もっともっと軽め路線で行きたいのであるが
やはり日常会話と違って、軽い気持ちで「嘘」をつくことはできない
(おまえは日常的にうそをついているのか、というツッコミ歓迎)
なので、どうしても「お勉強しました~」という文章になってしまう


不特定多数……不特定少数の人に伝えるのだからこそ
文責というものが問われると思っているからである


ぼくのことを知らないあなたが
ぼくが書いた間違いを信じてしまったら
ぼくはどうやって責任をとればいいのだろうか?

 


以上、まえふりを終わりにして
今回ぼくが紹介する本は
「市民のための世界史」 大阪大学歴史教育研究会 編 大阪大学出版会 (2014年)

 


「この本は大学教養課程の世界史教科書として編集されたものであり、大学の新入生をおもな想定読者としている。(中略)必修であるはずの高校世界史について、高校時代に系統的な知識や考え方を学べなかった学生たちである。」(p1-2)


つまり、以下のような人におすすめなのだ


・大学教養課程レベルの世界史を学びたい人に(この本の想定読者)
・大学受験生の副読本として(世界の全体像を頭に入れたり、論述問題用に)
歴史学を学ぼうとする初学者に、史学概論として
・世界史全体像を知ってみたい読書人に
・今の歴史学がどのようなもので、何を問題にしているかを知りたい人に


現状、世界史の教科書的概説本として、これ以上の本をぼくはしらない
いろいろ、探してきて、ようやく見つけた一冊だといえる


巻末の索引等も入れて、たった311ページ
これだけで、世界史の全体像が描かれる
それも、ほぼ最新の歴史学の知見を含めての、だ


世界史をかつて学んだみなさん、
索引から抜き出した以下の用語を見て
今の世界史との違いを感じてみてほしい

(以下のワードにどれだけはてなリンクが貼られるかな)


アジア間(アジア域内)貿易
イスラーム商業ネットワーク
雁行的発展
環大西洋革命
近代世界システム
グレート・ゲーム
港市国家
コロンブス交換
ジェントルマン資本家
自由貿易帝国主義
主権国家(体制)
中央ユーラシア型国家
中世温暖期
長期の16世紀
輸入代替工業
4つの口(江戸幕府の)
14世紀の危機
人口増加(近世中国)
財政軍事国家


ぼくはこれらの用語を見るだけで、わくわくするけど
みなさんはいかがだろうか


むろん、この本にもたくさんの弱点があって、
「『暗記事項の羅列』はいっさいしない」(p2)はすばらしいのであるが、
やはり、あまりにも抜けていることが多いと思う


プラトンをはじめとして古代ギリシアの科学、哲学をやはり無視するのやりすぎだと思う
ゼロの発見、その他、現代につながる古代文明での諸発見もほとんど描かれない


中央ヨーロッパの記述がほとんどないことや
ロベスピエール(フランス大革命)が出てこないのに、トウサン・ルーヴェルチュール(ハイチ革命)が出てくることに違和感があるのは、ぼくの頭が古すぎるのだろうか???


細かいところに不満はあるとしても、
歴史を学ぶとはどういうことか、この本は教えてくれるだろう


たとえば、本文の記述だけでなく
世界史像を作るためのコラムは歴史への興味を増やし
読者への「問いかけ」「課題」は歴史を考える力を養ってくる


たとえば、こんな課題がある
モンゴル帝国と現代のアメリカ合衆国との共通点について、政治権力(リーダーの選ばれ方や権力の構造)と社会・文化のしくみ、軍事と経済のあり方や両者の関係などを中心に整理せよ。」(p90)


クリルタイと(間接的な)大統領選挙
軍事商業国家と軍産複合体

……
………
むずかしい


ほんと
歴史を学ぶ力を養える素晴らしい本ですよ、この本は!


「おすすめ」の三百万唱!

 

 

 

 

 

以下、興味のある方へ、今回紹介した本書の目次

序章 なぜ世界史を学ぶのか
  1.21世紀の世界で歴史を学ぶ意味 
  2.世界史の入り口で
第1章 古代文明・古代帝国と地域世界の形成
  1.文明の誕生と国家の出現
  2.遠距離の移動と交流
  3.諸地域世界の成立と古代帝国の栄華
  4.古代帝国の解体と紀元後3~ 5世紀のユーラシア動乱
第2章 地域世界の再編
  1.中央ユーラシアの発展と東アジアの再編
  2.「唐宋変革」と「中央ユーラシア型国家」の時代
  3.ユーラシア西方の変動と新しい地域世界の成立
  4.ユーラシア南方の変容
第3章 海陸の交流とモンゴル帝国
  1.海陸のネットワークの連鎖
  2.モンゴル帝国アフロ・ユーラシアの「グローバル化
  3.14世紀の危機と大崩壊
  4.モンゴルの遺産・記憶とその後のユーラシア
第4章 近世世界のはじまり
  1.明を中心とする国際秩序
  2.西アジア・南アジアの近世帝国
  3ルネサンスと西ヨーロッパ「近代」の胎動
第5章 大航海時代
  1.ヨーロッパ人の世界進出と「近代世界システム」の形成
  2.銀と火器による東アジアの激動
  3.17世紀の全般的危機
第6章 アジア伝統社会の成熟
  1.東アジア諸国の「鎖国
  2.18世紀東アジア諸国の成熟と日中の大分岐
  3.東南アジア・インド洋世界の変容
第7章 ヨーロッパの奇跡
  1.イギリスとフランスの覇権争奪
  2.イギリスの工業化
  3.環大西洋革命の展開 151
第8章 近代化の広がり
  1.「パクス・プリタニカ」の成立
  2.欧米の国民国家建設と工業化
  3.近代化と大衆社会の萌芽
第9章 「ウエスタン・インパクト」とアジアの苦悩
  1.イスラーム世界の苦悩
  2.南アジアの植民地化
  3.東南アジアの植民地時代
  4.東アジアの衝撃と模索
  5.「アジア間貿易」とアジアの工業化
第10章 帝国主義とアジアのナショナリズム
  1.帝国主義第一次世界大戦
  2.アジアのナショナリズム
第11章 第二次世界大戦とアジア太平洋戦争
  1.「戦間期」の繁栄と世界恐慌
  2.日中「15年戦争
  3.第二次世界大戦とアジア太平洋戦争
第12章 冷戦と民族独立の時代
  1.戦後の国際秩序と「冷戦」「熱戦」
  2.脱植民地化と新興国国民国家建設
  3.「平和共存」と高度経済成長
  4.ベトナム戦争アメリカの覇権の動揺
  5.中ソ対立と社会主義の行き詰まり
第13章 現代世界の光と影
  1.新自由主義と冷戦の終結
  2.開発と民主化
  3.イスラームの復興と挑戦
  4.グローバル化と反グローバル化
終章 どのように世界史を学ぶか
  1.歴史学とはどんな学問か、どのように発展してきたか
  2.世界史をさらに学びたい人のために

 

023) 「恐れ入谷の鬼子母神」にて、思う

ある日のこと、鶯谷駅より散歩を始める

 

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鶯谷駅も何回も来たことがあるが、
北口に来たのは初めてだ


北上し、荒川区に入る
この辺りの道がくねくねと入り組んでいる

 

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たぶん、元は川だったと思われる


これだけ入り組んでいるということは
震災(関東大震災)の影響が少なかったのだろう


実際に、下谷警察署、金曾木小学校の沿革を見ると
坂本警察署(下谷警察署)は震災で焼失し、金曾木小学校を臨時に使用したとある

 

taito.ed.jp

www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp


碁盤の目状になっている国道四号線の東側とは大きく違うのもうなずける

 ここで、本当ならば、もう少し北上して
都電荒川線東京さくらトラムとか、やめてほしいw)の三ノ輪橋駅に行くべきなのだが、


時間の都合もあり
メトロの三ノ輪駅のあたり
そう、国道四号線と国際通りのY字路わたり、土手通りへ

 

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土手通りを南下すれば……


そう、「あしたのジョー」の舞台だ


土手通りの西側が吉原という街
そして東側が山谷という街


ジョーが命を燃やしてから半世紀がたち
21世紀も半ばになりつつある今、周辺の風景は大きく変わった


そんな下町の風景を見つめ、「似てない」といわれ続けるジョーは何を思うのだろうか

 

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スカイツリーを見ながら、右折すれば、浅草

 

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六区あたりで鯛焼きを食べたら、西へ戻る
かっぱ橋商店街を抜けて、


住宅街の公園

 

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そして、鶯谷駅からスタートした散歩は、ぐるーり一周して
真源寺、入谷の鬼子母神へと戻る

 

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「恐れ入り谷の鬼子母神


「その手は桑名の焼き蛤」
とともに、国語の副読本で覚えた記憶がある
ちなみに
「なんだ神田の○○」はいろいろあるみたいだ


鬼子母神の伝説は
子どものころ、手塚治虫の「ブラックジャック」で教えてもらった

 

ja.wikipedia.org


ブラックジャック」『鬼子母神の息子』という話は誘拐犯が主人公だが


この入谷で、かつて有名な誘拐殺人事件が起こったことはもう忘れられつつある
それは1963年に起きた吉展ちゃん誘拐殺人事件である


今回散歩した入谷、三ノ輪などの下町がその事件の舞台である


この事件の詳細については


「誘拐」 (ちくま文庫) 本田 靖春(2005年)

 

 

という本が詳しい


比較的詳しく描かれているWikipediaの記事もこの本が底本であることは間違いがない

 

ja.wikipedia.org

(事件の詳細については、Wikipediaをご覧になってください)


前回の(もうずいぶん前になるが)「天国と地獄」を観たあと、
電子本棚にこの本が積読のままになっていることを思い出して、
慌てて読んでみたのだ


ぼくと同じように……というと変な話ではあるが、
この事件の犯人は映画「天国と地獄」の予告編を見たことで、誘拐を思いついたという


この映画では、仲代達矢が演じる戸倉警部が執念の捜査をするわけだが
実際の誘拐事件では、警察の初期捜査はお粗末なものだったとしか言いようがない


逆探知ができなかったのは、当時の電電公社の問題なので、仕方がないにせよ
そもそも警察が録音機を用意しなかった(初期の段階で営利誘拐ではないと判断していなかった)ので、被害者の家族が用意するものを使ったこと
身代金の紙幣のナンバーを控えることすらしてない(映画では何時間もかけてするシーンがある)こと
身代金を渡す際に、被害者の母との調整ができずに、張り込み・尾行ができなかったこと


この初期捜査の数多くのミスが事件を長引かせ、
警察は公開捜査に踏み切ることになる(警察と報道機関が報道協定を行った最初の事件だった)
情報募集のために、犯人の声を録音したものがメディアに登場し、
国民的関心ごとへと発展し
「戦後最大の誘拐事件」に数えらえることになる


実行犯は、捜査の早い段階から捜査線上に上がっていたのだが、
自分たちが張り込み・尾行に失敗するぐらいなのだから、
足の悪い男では実行不能というバイアスがかかったのだろうと思う


その膠着状態を打ち破ったのが、「昭和の名刑事」平塚八兵衛であり、
アリバイ崩しの過程と自供を得る過程については、
平塚本人の語る「刑事一代-平塚八兵衛の昭和事件史」 が詳しい


「刑事一代-平塚八兵衛の昭和事件史」 (新潮文庫) 佐々木 嘉信(2004年)

 


「誘拐」を読んでみて、つくづく思うのは、
三者の善意と敵意が非常に「日本人らしい」と感じることである


被害者宅には多くの励ましや慰めの手紙が届くわけだが、逆に悪意も届いたりする


(公園の水飲み場で誘拐は起こったのだが)
「公共の水を手前勝手に使うから、そういう目にあうのだ」(「誘拐」p205)
という匿名の手紙が届いたという


いまの「正義マン」や「炎上」と同じ心性はずっと続いているのだろう

 


「誘拐」の著者・本田靖春は被害者家族だけでなく、犯人に対してもやさしい
その生い立ちから人間像を細かく描写していき、事件後の刑の執行までを描く


犯人は自供以後、自ら悔い、極刑を望むようになった
死刑囚になってからは、数多くの短歌を詠み、同人誌に投稿するようになる
その際のペンネームを「福島誠一」といい、故郷の福島と誠意第一を意味していた


鬼子母神伝説では、
釈迦に自分の子どもを隠された鬼子母神は諭され、改心し、子どもと安産の守り神になった


犯人・小原保は
刑の執行の際に、平塚に「真人間になって死んでいきます」と伝言を伝えたという

 

ぼくは、鬼子母神の前で小さく手を合わせて、そこを後にした……